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2025/04/27 16:32

【実は鯖江よりも古い東京のメガネづくりの歴史】
日本のメガネ作りは江戸時代の後期くらいには、べっ甲などを用いたメガネ作りが始まっていたと言われています。奈良・東大寺の「正倉院」の所蔵物に"白銅製柄付眼鏡"というものがあり、これが日本最古のメガネであると考えられています。しかし一般的には京都・大徳寺の大仙院所蔵の古メガネが最古との説もあります。
フランシスコ・ザビエルが日本に伝えたとされる「目器」も日本最古と言われていますが、その前の室町時代には海外からメガネが輸入されていたようです。江戸時代には出島を通じて4万本近いメガネが輸入されたという記録もあり、徳川家康愛用のメガネも静岡県・久能山に所蔵されて現存しています。邪馬台国並みの「メガネ日本最古論争」です。
日本のメガネ作りの勃興は、東京・大阪だと言われていて四国もメガネ産地として古いそうです。1905年の創業した鯖江(福井)日本最古のメガネメーカー「増永眼鏡」の資料によると、メガネ作りを鯖江に伝えたのは東京・大阪の眼鏡職人とあります。雪深い農閑期の鯖江に産業をと創業者の増永五左衛門氏は奔走します。映画「おしょりん」では増永五左衛門氏と弟の幸八氏が、日本製メガネの聖地と呼ばれるまでにした歴史が描かれています。
【東京のメガネ作りの衰退はなぜ起こった】
1990年くらいまでは東京にも中・小規模のメガネ生産工場が残っていたそうです。当時はバブル経済の真っ只中でした。鯖江の工場は敷地を広げる余裕があり量産の設備導入を行う事が出来ました。しかし東京は地価の高騰により工場敷地の売却による廃業・移転が多くあったそうです。大型設備の導入も難しい工場が多かったようで、少しづつその数を減らしていきます。
バブル崩壊後、様々な理由で倒産・廃業が相次いで2011年に東京最後のメガネ工場「敷島眼鏡」が閉鎖されて東京のメガネ作りは途絶えてしまいます。GROOVER代表の中島正貴は、東京のメガネ作りの灯を消してはならないと一念発起し、2015年に敷島眼鏡のクラフトマン達に再び集結してもらい自社眼鏡工場"GYARD"を設立します。今も東京にはべっ甲や貴金属メガネを作る工房は少し残っていますが、ある程度の規模を持つ工場はGYARDのみ。関東唯一のメガネ工場です。

【東京製法の魅力とは】
東京のメガネ作りは大きく量産化する事が出来なかった為、ハンドメイドの工程を多く残した伝統工芸のような眼鏡作りです。その艶は深く、独特の風合いを生み出します。また手作りでしか表現できない柔らかなカッティングは、もう一度東京のメガネ作りを再興させたいと思わせるものでした。
現在、日本に限らず多くのメガネ工場はアセテート生地の下処理に多くの時間を割くことが難しくなっています。GYARDでは下処理に多くの時間を費やし、経年劣化の変形防止に努めます。また磨きの工程も現在のメガネ作りより約2.5倍ほど多くの時間を掛けています。磨き工程の合間に、素材の中にある不純物を「浮かす」工程が何度か入るのですが、この工程が今のメガネ作りにはなく東京製法の特徴かもしれません。
各工程で手間暇を掛けることから、同規模の工場と比べて生産数は3割程度しか作ることが出来ません。つまり3倍以上も不効率なのですが、この手間暇を掛けることによってGROOVERでしか表現できないメガネが出来上がるのです。
おかげさまでGROOVERのメガネ作りは世界中で評価されてきています。北米・ヨーロッパ・アジアと着実にGROOVERのファンを増やしてきました。「そんな手間暇かけたって誰も分からない」と言われ続けていましたが、世界中の"分かってくれる人"達を増やしていきながら地道にやり続けています。
「メガネは掛ける人の人生そのものである」という信念において、メガネ作りに情熱を注いでいるのであります。