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2024/01/10 18:04
ウェブサイトにアクセスして頂きまして誠にありがとうございます。陽ハ昇ル代表の中島正貴と申します。
『陽ハ昇ル』はGROOVERとXAZTLANをご覧頂けるショールーム兼ショップとして2023年4月1日にオープンしました。
日本最古の東京の眼鏡作りを継承した私達の自社メガネ工場「GYARD」から生み出される「GROOVER」と、アメリカの元オークリーのスタッフ達の協力のもとに立ち上げたスポーツサングラスブランド「XAZTLAN」を存分にご覧頂けるお店として表参道にオープンさせました。
一般的な日本の眼鏡作りよりも伝統工芸に近いクラフトマンシップなGROOVERと、先端テクノロジーを融合させたXAZTLANとの違いに、違和感を感じる方もいらっしゃるかもしれません。そのルーツは私の眼鏡屋人生にあります。
■家業の跡取りとして■
私はかつて日本の色んな町にあった時計・宝石・メガネを取り扱う兼業店に生まれました。1975年に私の父が創業しました。私が跡を継いだ90年代後半はバブル経済崩壊の真っ只中で、経営は非常に苦しく借金も沢山ありました。「1年くらいで店を整理しよう」というような腹積もりで跡を継いだのですが、今も眼鏡屋です。この時に兼業店からメガネ専門店に業態を変えましたが、なぜメガネ専門店にしようと考えたのか、今思い返しても覚えていないのです。
眼鏡屋の跡継ぎの方々の多くは、メガネの専門学校に行きます。今は通信教育が多いようですが、当時は全日制の専門学校へ行きました。私は高校を卒業するころに、実家の経営が非常に悪かったので土木工事のアルバイトで学費の一部を貯めて大学に進学しました。
あまりの経営悪化に大学を休学して店に戻り手伝う事にしたのですが、1年くらいで店を畳むつもりでした。私には当時ほかにやりたいことがあり、そんな心構えだったので、最初の三か月間くらいは仕事に身が入りませんでした。しかし三か月間もダラダラしていると、"この時間がとても無駄だ"と思えてきたのです。苦しい経営状態で給料もままならず、仕事の後はアルバイト。何とかここから抜け出すために、24回払いでパソコンを買ったところから人生が変わります。当時、メガネ店のホームページは殆どなくて、自作したホームページは大人気となりBBSのオフ会を開催するに至るほど盛り上がりました。インターネットが商売を好転させてくれたのです。
■「世界一のオプティシャンになる」と決めた■
「ダメ元でもやってみよう!」と一念発起した日、絶対的な目標を立てようと思い「世界一のオプティシャンになる」と決めました。"世界一の眼鏡屋になる"とだと店が一番という意味になってしまうので、自分自身への覚悟が全然違うなと思い"オプティシャン"としました。
しかし「世界一のオプティシャン」になった人はいません。またそれを決めてくれる機関もありません。まして日本にはオプトメトリー制度(国家資格の眼鏡士制度)が無いため、そもそも「オプティシャンになる」が難しい。それに気付いたのは、それからずっと後の事です・・・。
細かいことはさておいて、まずは測定・フィッティング・加工の圧倒的な技術を習得する必要があると考えました。父はメガネ全般の技術は持っていましたが、父の技術では世界一にはなれない事は明白でした。また当時台頭していたセレクトメガネ店のオーナーさん達は、メガネ選びには熱心だけれども技術に全く関心が無い方ばかりでした。それは今も変わっていないと思いますが、「これは違うんじゃないか?」という疑問が真っ先に思い浮かんだのです。やはり技術力のベースの上に積み上げないと、どこかで行き詰る気がしました。
■日本で一番ハードコアな眼鏡屋集団■
私はある日突然に眼鏡屋になったので、技術的な修行をしたことがありませんでした。そんな時、父の知人が店にやってきて、私の師匠となる新宿の紀伊国屋にあった三邦堂(現在は閉店)の秋澤社長を紹介して頂きました。秋澤社長は日本最古の眼鏡店「村田眼鏡舗」(現在は閉店)の流れを汲まれていて、ドイツ式両眼視測定という数少ない測定方法を実践されていました。また1960年代にドイツのZEISS社の教育プログラムを作られた南澤先生や、天皇陛下のメガネを加工されていた岡野先生なども三邦堂に出入りされていて「修行するならここだ!」とすぐに決め弟子入り。秋澤社長を知る人は”変わり者”だと言いますが、それは衰えぬ探求心そのものだったと私には感じていました。日本選りすぐりの眼鏡技術者が顔を出していて、凄まじい変わり者の眼鏡屋集団だったと思います。
その時すでに私は実家の眼鏡店で働き始めていた後だったので、自分の休みの日や空いた時間から通い始め、最後の方は自店で従業員を雇って自分は修行に出向くような日々でした。修行が始まってから12年が経ったころ、「広島の因島に行く」と秋澤社長から言われ8日間の予定で因島に行きました。因島にはドイツ式両眼視測定の始祖ハーゼ先生に直接習った日本人、永田先生がいらっしゃいました。
ハーゼ先生は1960年代、独自に開発した偏光板(ポラテスト)を使ったドイツ式両眼視測定を日本に広めるため来日し、半年間を掛けて日本中をキャラバンされたそうです。そのキャラバンに同行していたのが永田先生で、ハーゼ先生の測定を間近で目にし技術を教わりました。ハーゼ先生から指南を受けた唯一の日本人と言っても過言ではありません。ドイツ式両眼視測定は、単に視力だけではない両目のチームワークなどの視機能を測定できる方法です。
私の最終試験は因島での8日間合宿でした。7日目の夜、秋澤社長と永田先生と食事をした際「もう教えることはない。免許皆伝」と伝えられました。本当にこんな日がちゃんとあったのです。修行を始めてから丸12年、13年目に突入しようかという頃で私は34歳になっていました。その後、視力測定に困ったことは殆どありません。秋澤社長の弟子で、この最終合宿と免許皆伝が言い渡されたのは私だけでした。
■GROOVERを作った理由■
視力測定・加工・フィッテングの技術は習得しましたが、それだけでは「世界一のオプティシャン」にはなれません。そもそもの眼鏡フレームについても知る必要があります。GROOVERは2006年頃に立ち上げました。自店のセレクトを通して、国内外の色んなメガネブランドのデザイナーの方達と話す機会が多くありましたが全然凄くないんです。「売れるデザイン」とか「どこのブランドがこんなの作っていた」とか、「玉型の1mmにこだわって・・・・」みたいな話ばかりで、自発的なエモーションでデザインしている人が全くいないんです。見聞が広がった今現在も、パッションなデザイナーは世界で10人くらいしかいないと思っています。
「こんなデザイナー達のメガネを売るのは嫌だな」と思ったのが、GROOVERの始まりです。スピリッツの無いセレクトをして沢山売れたと言うのは、「世界一のオプティシャン」の道ではありません。ブランドメガネやヴィンテージメガネを皆さん好きだと思うのですが、どんな品揃えであれセレクトショップはある種、スピリットに限界があると20代の後半に感じていました。やはり自分で作らないとダメです。
私はスポーツサングラスブランドが大好きで、オークリーやスパイなどのサングラスを多くセレクトし販売してきました。いつかスポーツサングラスブランドもセレクトではなく、自分でブランドを作りたいと考えていました。しかしこの製法は桁違いに開発費・制作費が掛かります。GROOVERから遅れて16年、2022年にオリジナルスポーツサングラスブランド「XAZTLAN」を発表しました。この時、また一歩目標へ近づいている感触がありました。
■GYARDの設立は後先なんて考えていませんでした■
GROOVERは立ち上げ当初、日本の眼鏡産地である福井県鯖江市の眼鏡工場に生産を委託していました。けれど距離的な問題や、細かいディティールがどうしても伝わらず、毎回悔しい思いをさせられていました。ならば東京唯一の眼鏡工場だった「敷島眼鏡」で作ろうという事になり、サンプルを作って頂いた時点でグっと来ました。しかし製品が仕上がる前に倒産してしまったのです。その後、後にGYARDへ来てくれる工場長の渡辺さんをはじめ、職人さん達は小さいメガネ工房へ移られました。GROOVERは少しの期間だけその工房で作っていましたが、職人さん達とその工房の社長がモメて辞めると言います。
ようやく少しづつ納得できる製品になってきたところで、これは非常に痛手です。ほとんど条件反射だったと思いますが「自分が工場を作るのでメガネ作りを辞めないでください」と伝えました。鯖江でもほとんど新工場が立ち上がらない昨今にあって、まして東京近郊で作るなど無謀だと自分でも思いましたが「世界一のオプティシャン」になるために不可欠であると思い突き進みました。
東京の眼鏡作りの歴史は古く、鯖江に眼鏡作りを伝えたのは東京と大阪の眼鏡職人だと伝えられています。日本最古の眼鏡製法が東京製法だと言っても過言ではありません。80年代までは多くの眼鏡工場が東京にあったのです。
眼鏡工場の設立には体力面と資金面で地獄を見ましたが、2015年に横浜に眼鏡工場「GYARD」を設立し今でも継続しています。関東唯一の眼鏡工場となりました。よく「工場を作ろうと思っているんですよね」という話をされる方がいますが、工場を作れた人は誰もいません。そのくらい工場の設立はミラクルが重ならないと上手くいかないと、思い知らされました。
あまり合理化されていない手作りなメガネって、風合いが全然違うんですよね。GROOVERを手に取って頂いた方には伝わると思うのですが、この風合いは他の工場では出せません。手間暇の掛け方が圧倒的に違います。海外進出へする際、「外国人にはそんなことは分からない」と散々言われたのですが、GYARD製のGROOVERは海外に行く先々で風合いを絶賛されました。多くを作ることは出来ませんが、この伝統製法を守って作っています。
■世界一を目指すのだから世界に行く■
眼鏡屋人生25年目になるのですが、こういった事を同時進行で進めてきました。
「世界一のオプティシャン」と言っているので、やはり世界で戦わなくてはなりません。海外はオプトメトリー制度という検眼士が国家資格となっているところが殆どで、日本で言うところ薬学部のような大学で学ぶ必要があります。日本では実質的にアルバイトでも視力測定をすることが可能で、オプトメトリー制度がありません。オプトメトリー制度が無い先進国は日本とオランダのみと言われており、アジアでも珍しい存在です。日本にも眼鏡作製技能士という国家"検定"がありますが、医師や弁護士のような国家"資格"とは異なります。眼鏡作製技能士の資格を持っていなくても業務が出来るので、アルバイトでも視力測定が出来てしまうわけです。例えば他の国家検定はピアノ調律・フラワー装飾・家具製作・パン製造などがあります。
そうなると視力測定技術で戦う事が出来ないので、やはりブランドで勝負するしかありません。GROOVERを2008年頃から香港へ売り込みに行きました。香港は日本のメガネへの理解度が高く、アジアの要所です。2012年にやっと取扱店が決まるまでずっと惨敗でしたが、今ではGROOVERの主な輸出先となりました。また2014年からはヨーロッパへ、また2016年からはアメリカへ進出しました。アメリカ市場は大苦戦をしまして、北米の眼鏡店に飛び込み営業を3年ほど続けました。日本人が飛び込み営業をするなんて誰も考えていませんから、驚きをもって歓迎されました。2019年にニューヨークで行われたVISION EXPO EASTで、ようやく沢山の取り扱い店舗が決まりましたが、コロナによって全てを失いました。現在、ヨーロッパに強力なパートナーが現れて、アメリカ市場はお休みしています。
恐らくこれほど多くの北米・アジアの眼鏡店を回る、日本人はいないと思います。バンクーバー→サンフランシスコ→ロサンゼルス、トロント→ニューヨークの両海岸都市を何度駈けずり回ったことか。その経験が今とても活きています。世界中に太いネットワークが出来、香港のメガネ誌「Vマガジン」の日本発行権を獲得するまでに至りました。Vマガジンはヨーロッパとのネットワークが強く、影響力があります。コロナを経て海外では日本人デザイナーや日本ブランドが通用しなくなってきていて、日本ブランドは正念場を迎えております。
■コンパクトにギュっと詰まった店をどうしてもやりたかった■
2000年初頭のアメリカ・サンタモニカで見た、フレッドシーガルの店内にあった眼鏡店にずっと憧れていました。2坪くらいのスペースにギュっと詰まっていたんですよね。陽ハ昇ルも現在進行形で色んな"モノ"や"コト"を詰め込んでいます。レンズ加工だってすぐに出来るし、度なしレンズだってたくさん用意しています。やれることは少ないですが、修理や磨く設備もあるんです。ご予約を頂ければ視力測定も行えます。また王道ではないのですが、個人的に私が好きなデッドストックのヴィンテージも並べています。
そんな私の生き様を凝縮した、現時点での集大成として始めた眼鏡店が「陽ハ昇ル GROOVER×XAZTLAN」です。